夜ふかし録

クラリネットの条件検討

調律されている私自身の記録

このブログでは、おもにクラリネットのことをつらつらと書き連ねている。

内容はもっぱら私の関心の照らすことにばかり向いていて、似たようなことを繰り返し書いている。自分で読んでも、その繰り返しぶりにあきれるほどだ。

しかも、音楽をするために楽器に取り組んでいるのに、ブログの話題は、奏法や仕掛けに関するディテールのことだらけ。表現の話は全然出てこない。カメラの世界でも、「写真を撮ることではなく、カメラというモノが好きなだけ」、という揶揄(あるいは自嘲)を見かけるが、私のクラリネットへの関心も、それと重なる部分が大きいのは否めない。

 

ただそれでも意味がないわけではない(と思っている)。ひとつには、楽器は道具なので、道具をうまく扱えることは、その道具をつかってコト(=音楽)をなすことに必ずつながっているということ。

そしてもうひとつは、楽器は自分自身を写す鏡でもあるということだ。

楽器をかまえて息を吹き込むこと、それに応じて楽器から出てくる音を自分自身で聴くこと。これは、自分自身をモニターしていることにほかならない……と私は思う。

自分自身の感覚で自分自身をモニターし、その経験をもとに、意図したとおりの結果を実現する、ということは、人間の営為に共通するプロセスだと思う。

実生活では、ほかのヒトや社会に対して意識的・無意識的にこうしたプロセスを繰り返しているわけですが、楽器を通して感覚を保つことは、どこかでよりよく生きることにもつながっているのではないか……などと、少しおおげさに考える。これは楽器でなくても、バッティングセンターでも茶道でも狩猟でも、なんでもいいわけですが。そうした営みによって、実は私(たち)自身が調律されている、というように私は感じます。

 

そんなわけで、私の楽器に関する感覚なんか書き連ねても意味はないのかもしれないけれど、半分は自分の記録、半分はどこかで読んでくれているかもしれない同じような誰かのために、これからも拙い足取りを記しておこうと思うのでした。