雑文です。
自分がここ1週間ほどで見知ったもののうち、心動かされた幾つかについて。
(1) 公理主義的な確率の定義
統計学の教科書で出会った。
私は数学の素人なので、あまり多くを語る能力や知識はない…
古典的な確率の定義というのは、サイコロの目の出る確率だとか、カードの表あるいは裏の出る確率のような、直感的に理解しやすい確率を主に対象としている。
公理主義的な定義は、「確率」がどのようなふるまいをする対象か、ということを定義することによって、確率論で扱いうる対象を拡張したようです。確率そのものを定義することが難しいのであれば、そのふるまいを定義しよう…という発想のように思えた。
これはとても巧妙かつ、その後の発展を助けるアイデアのように思え、その点に凄さを感じた。
楽しんで視聴しているのですが、中世以前の話ということもあり、登場人物のこまかなエピソードについて史料が残っているわけでもないようで、ドラマは自由に形作られてるように感じる。役者の言葉遣いがほぼ現代語そのままなのも、意図的で、気にする人は気になってしまうのかもしれないが、大切なのはそこではない、という割り切りがうかがえて、私は気にならない。
その生涯について遺されている情報が少ない太古の作家について長尺のドラマをつくる、ということは難しいに違いないと思うが、情報が少ないことを利用して語りたいことを語るテクニックというのものが確かにある、と感じた。
(3) シベリウスの悲しきワルツ
その大河ドラマ第5話を見終わったあと、テレビのチャンネルを回すと、こんどはシベリウスの「悲しきワルツ」の演奏場面。
この曲は15年くらい前に知ったのだが、12年ほどまえにその真価を実感した(=演奏を聴いて感動した)。
この曲は「クオレマ」という劇付随音楽の一つとして作曲されている。クオレマ、というのはフィン語で「死」という意味だそうだ。「悲しき」という表題から考えても、死のイメージが色濃い曲だと思うが、演奏時間としてはとても短く、編成もシンプルな曲だ。
死は語ることの難しいテーマだと思う。
A. 誰もが最終的には経験するが、生きている者はまだ誰も自分自身の死を経験したことがない。
B. 誰もが自分自身の死を恐れている。
C. 誰もが、家族や肉親の死を恐れ、実際にそれが起こった時には非常に深い悲しみを経験する。
D. 死のあとにやってくるものや死そのものについて、死ぬ前に知ることができない。
……これを語るのは難しすぎますね。
「悲しきワルツ」においては、曲が暗鬱に開始され、虚脱したような旋律が奏でられる。一時的に活力を得たかのように音楽が躍動するが、すぐにまた虚脱してしまう。
繰り返したあと、この曲中でもっとも烈しい感情の爆発が起こる(高音域の急速な旋律のあと、すぐに低音域で冒頭と同じ旋律が繰り返される)。そして、再び虚脱。
(なんらかの)死に直面したことのある人には、このような感情の動きは身に覚えがあるのではないかと思う。
死そのものを描き出すことは非常に難しいが、死に直面した自分自身の感情の動きはどうしようもないほどに強く、切実なものだ。
シベリウスは後者を忠実に表現することで、死の手触りを驚くほど精緻に描き出している、といえるのではないだろうか。