カディッシュ

久しぶりに演奏会へ。たまたま時間があき、たまたま興味をそそる演奏会の情報が目に飛び込んできたので、当日券をとって聴くことができた。

 

演目はショスタコーヴィチの第九交響曲と、バーンスタイン交響曲「カディッシュ」。演奏は都響とインバルとのコンビによる。

 

チケットを買うまで私の関心は前者のショスタコーヴィチにあった。この演奏はおおむね期待どおり、モダンな都響の音色が十分に発揮されていて満足。

しかしこの演奏会の白眉は後者のバーンスタインだった。カディッシュを聴いたのは今回が初めてだった。この日の演奏はかなり切迫した、凄みのある雰囲気を伴っていたが、……これは、2023年10月以降の世界情勢を反映していると言っていいのだろう。プログラムが決まったのは1年以上前のはずだし、その間に使用するテクストが変更になっていることも含めて、偶然のなせる業だ。

 

音楽の響きは、メシアンのように前衛的な響きがあったり、12音のようなところがあったり、変化に富んでかつ調和がとれているカラフルな響きの作品だと思った。ただ少なくとも今回の演奏に関しては、テクストのもつメッセージの強さ(そして語り手の強さ)が一歩前に出ていたように思う。

 

こういった響きの豊かさは録音には入りづらいような気がする。たとえば冒頭の声楽の伴奏をともなう語り手の語りのような場面。このような作品の魅力を十分に理解するには、演奏会場に行くほかないのだと思います。

酸っぱいコーヒーの良さ

コクがあって苦みがあって、酸味はそんなに多くないのが日本でよく飲まれていて人々が想像するオーソドックスなコーヒーだと思う。これは深煎りの豆が多数を占めているだろう。焙煎後の豆が濃い茶色~黒っぽい色だ。

 

浅煎りの豆は色が明るい茶色だったり赤っぽかったりする。

浅煎りの豆で、抽出に無頓着に淹れると、けっこう酸っぱくなってしまうことが多い。

自分もそうで、酸っぱいコーヒーは苦手で、浅煎りの豆のおいしい淹れ方というのがわからなかったので、避けていた。というか、単純に浅煎りの豆が好きな人はあの酸味が好きな人で、完全に好みが違うので分かり合えないのだ、と思っていた。

ブルーボトルコーヒーは、浅煎りの豆を多くつかうサードウェーブコーヒーの有名なコーヒーチェーンなのだが、そういうわけでスタバ的な苦みやコクを中心とした味を想像していくとびっくりする(私は初めて行ったときびっくりした)。

 

 4-5年ぶりにブルーボトルコーヒーにいったら、浅煎りのコーヒーの何がよいのかがすんなり理解できて、別の意味でびっくりした。

「浅煎りのコーヒーはとにかくすっぱい」という誤解があった。

浅煎りの豆だからといって酸っぱいことが必ずしも良いことではない。酸っぱすぎるのは淹れ方が不適切で、豆の本来のおいしさを引き出せていないだけかもしれない。

そのうえで、浅煎りの豆では抽出時間や湯の量を厳密にすることで、繊細な味を引き出すことができるのだった。

コクとか苦みはコーヒーの味のごく一部に過ぎず、別の層には繊細な酸味や甘みの層が重なっていて、上手に淹れるとこういった多次元の味が折り重なって立体的=奥が深い味、をつくることができる。少し大げさにいうとこういうことだと思う。

 まぁたぶん、深煎りの豆も本来はそうやって気をつかって淹れるのが正道なのを、私が無知だから適当に淹れていて、でも深煎りだと酸味が出づらいからなんとなく飲める味になっていただけ、というのが真相なのだけども。

 

結果、奥深い味をもつ浅煎り豆を上手な人に淹れてもらって(=お店で)飲む、ということににわかに目覚めてしまいました…。

こういうお店、いわゆるサードウェーブ系のコーヒーショップは、バリスタの動きが意味ありげだったり、ドリッパーとかメジャーとかのその他小道具がいちいちミニマルデザインだったりとかで、なんとなく「けっこうなお点前で」という空気を醸している。

 

親しんできたつもりのものでも、全然違う顔をもっているものなんだな、と思いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

リガチャーを変える

12月の日記に、久しぶりにToscaを吹いたら音がびりびりする、と書いた。

このときのリガチャーバンドレンオプティマムだった。けっこうずっしりと重い金属製のリガチャーだ。

ふだん使っているのはビュッフェクランポンの純正リガチャーで、金属製だが薄く軽く、しかも自分のはもう10年くらい使っている。

ビリビリする音の原因は(1)奏者がヘボい(2)ToscaとRCの違い という2つのほかに、リガチャーの違いもあるかもしれない…と思い、オプティマムをRCに組み合わせて使ってみた。

すると、なんとなく音の重心が下がる感じというか、音に重みがでるというか、そういった印象の変化を感じた。

 

リガチャーはけっこうお値段が高い。高いものは数万円するし、いわゆるひとつの「沼」なので、できればリガチャーに関してはあまり考えたくないと思っている(沼はマウスピースとリードだけで十分なので…)。

だから、絶対いいのはわかっているけどシルバースタインだとかJVLみたいなナウくてイケてるリガチャーも含め、いっさい寄り道せず、クランポン一択で10年以上やってきた。

 

だが今回、このように音に変化が出るのであれば、まったく選択肢を持たないのは損だと思った。

多分、高いものを買う必要は必ずしもなく、金属/革、順締め/逆締め、重い/軽い、くらいのパラメータでいくつかのパターンを持っておけば、道具で音をまとめる方策が得られやすくなるかもしれない…。

ということを認識した1月でした。

語ることが難しいものについて語る方法

雑文です。

自分がここ1週間ほどで見知ったもののうち、心動かされた幾つかについて。

 

(1) 公理主義的な確率の定義

統計学の教科書で出会った。

私は数学の素人なので、あまり多くを語る能力や知識はない…

古典的な確率の定義というのは、サイコロの目の出る確率だとか、カードの表あるいは裏の出る確率のような、直感的に理解しやすい確率を主に対象としている。

公理主義的な定義は、「確率」がどのようなふるまいをする対象か、ということを定義することによって、確率論で扱いうる対象を拡張したようです。確率そのものを定義することが難しいのであれば、そのふるまいを定義しよう…という発想のように思えた。

これはとても巧妙かつ、その後の発展を助けるアイデアのように思え、その点に凄さを感じた。

 

(2) 紫式部が主人公の大河ドラマ

 楽しんで視聴しているのですが、中世以前の話ということもあり、登場人物のこまかなエピソードについて史料が残っているわけでもないようで、ドラマは自由に形作られてるように感じる。役者の言葉遣いがほぼ現代語そのままなのも、意図的で、気にする人は気になってしまうのかもしれないが、大切なのはそこではない、という割り切りがうかがえて、私は気にならない。

 その生涯について遺されている情報が少ない太古の作家について長尺のドラマをつくる、ということは難しいに違いないと思うが、情報が少ないことを利用して語りたいことを語るテクニックというのものが確かにある、と感じた。

 

(3) シベリウスの悲しきワルツ

 その大河ドラマ第5話を見終わったあと、テレビのチャンネルを回すと、こんどはシベリウスの「悲しきワルツ」の演奏場面。

この曲は15年くらい前に知ったのだが、12年ほどまえにその真価を実感した(=演奏を聴いて感動した)。

この曲は「クオレマ」という劇付随音楽の一つとして作曲されている。クオレマ、というのはフィン語で「死」という意味だそうだ。「悲しき」という表題から考えても、死のイメージが色濃い曲だと思うが、演奏時間としてはとても短く、編成もシンプルな曲だ。

死は語ることの難しいテーマだと思う。

A. 誰もが最終的には経験するが、生きている者はまだ誰も自分自身の死を経験したことがない。

B. 誰もが自分自身の死を恐れている。

C. 誰もが、家族や肉親の死を恐れ、実際にそれが起こった時には非常に深い悲しみを経験する。

D. 死のあとにやってくるものや死そのものについて、死ぬ前に知ることができない。

 

……これを語るのは難しすぎますね。

「悲しきワルツ」においては、曲が暗鬱に開始され、虚脱したような旋律が奏でられる。一時的に活力を得たかのように音楽が躍動するが、すぐにまた虚脱してしまう。

繰り返したあと、この曲中でもっとも烈しい感情の爆発が起こる(高音域の急速な旋律のあと、すぐに低音域で冒頭と同じ旋律が繰り返される)。そして、再び虚脱。

(なんらかの)死に直面したことのある人には、このような感情の動きは身に覚えがあるのではないかと思う。

死そのものを描き出すことは非常に難しいが、死に直面した自分自身の感情の動きはどうしようもないほどに強く、切実なものだ。

シベリウスは後者を忠実に表現することで、死の手触りを驚くほど精緻に描き出している、といえるのではないだろうか。

調律されている私自身の記録

このブログでは、おもにクラリネットのことをつらつらと書き連ねている。

内容はもっぱら私の関心の照らすことにばかり向いていて、似たようなことを繰り返し書いている。自分で読んでも、その繰り返しぶりにあきれるほどだ。

しかも、音楽をするために楽器に取り組んでいるのに、ブログの話題は、奏法や仕掛けに関するディテールのことだらけ。表現の話は全然出てこない。カメラの世界でも、「写真を撮ることではなく、カメラというモノが好きなだけ」、という揶揄(あるいは自嘲)を見かけるが、私のクラリネットへの関心も、それと重なる部分が大きいのは否めない。

 

ただそれでも意味がないわけではない(と思っている)。ひとつには、楽器は道具なので、道具をうまく扱えることは、その道具をつかってコト(=音楽)をなすことに必ずつながっているということ。

そしてもうひとつは、楽器は自分自身を写す鏡でもあるということだ。

楽器をかまえて息を吹き込むこと、それに応じて楽器から出てくる音を自分自身で聴くこと。これは、自分自身をモニターしていることにほかならない……と私は思う。

自分自身の感覚で自分自身をモニターし、その経験をもとに、意図したとおりの結果を実現する、ということは、人間の営為に共通するプロセスだと思う。

実生活では、ほかのヒトや社会に対して意識的・無意識的にこうしたプロセスを繰り返しているわけですが、楽器を通して感覚を保つことは、どこかでよりよく生きることにもつながっているのではないか……などと、少しおおげさに考える。これは楽器でなくても、バッティングセンターでも茶道でも狩猟でも、なんでもいいわけですが。そうした営みによって、実は私(たち)自身が調律されている、というように私は感じます。

 

そんなわけで、私の楽器に関する感覚なんか書き連ねても意味はないのかもしれないけれど、半分は自分の記録、半分はどこかで読んでくれているかもしれない同じような誰かのために、これからも拙い足取りを記しておこうと思うのでした。

音階練習の大切さ

音階練習(スケール)はとても大切。

音楽は音階からできているとかよく言われるし、実際、多くの調性に従っているのだから、調を決める音階をよどみなく自由に扱えることは基礎なのだろうと思う。

 

あらためていろいろな音階を吹いてみると、音を並べることはできても自由自在に扱えているかというと…………。

スケールを自由に扱えるようになることを目標にしたいと思うが、そのためには何が必要か…

少し考えると、ある調のスケールに出てくる音を迷わず順番に並べることができるということが、目標ではなくスタート地点なのだと気づく。それができた上で、分散和音や様々なインターバルなどができるようになるわけですね。

当然のことといわれたら返す言葉もないです。

音楽をある程度できるようになるためには、その言語である音階をしっかり使えるようになりましょうということです。

 

ところで仕事においてもスケールのような欠かすことのできない基礎というものがあるに違いない。

おそらく内科医の場合は鑑別診断と、common diseaseの標準治療なのだろうと思います。

短篇小説の世界

夏目漱石の「夢十夜」が好きで、思い出すたびに読み直している。夜にみる夢のように脈絡がとびとびで幻想的な、まさに夢幻の世界。似たような作品はないものか?

 

ホルヘ・ルイス・ボルヘス芥川龍之介異世界が垣間見えるような短篇も魅力的だ。フランツ・カフカは「変身」が有名だが、ほかにも魅力的な短篇がある。

やや毛並みは異なるが、柳田國男の民話・怪談もよい。

 

映像による娯楽とも違うし、長編小説の楽しみとも異なる独特の魅力が短篇小説にはあるらしい。