夜ふかし録

クラリネットの条件検討

クラリネットでつながる社会

今年は久しぶりに演奏会の予定が2つもあった。この3連休でその2つ目を終えたことになる。

 

日頃は大学院に所属し、仕事の傍ら一応研究をしているので、頭の中は研究室(ラボ)に合わせた状態になっている。人間関係のあり方や行動様式もそのようになる。これはどこの共同体(企業、施設、他のラボ)に属しても同じだろう。

クラリネットは20年以上続けていて、その活動の場は時期によって吹奏楽部だったりオケだったり室内楽だったり変わってきたけれども、自分の見てきた範囲ではどこも概ね似たような雰囲気だった(ゆるすぎず厳しすぎず。意地悪な言い方ではぬるま湯というかもしれない)。クラリネットを通して得た人間関係というのはかけがえがないものである。

日頃ラボの雰囲気に染まっているところ、このように久しぶりに音楽の場を通り抜けると、ラボの変なところに改めて気がつくのは道理である。アカデミックであることが最優先される場なのだから変なのが当然といえばそうだろうとも思うが、所属しているひとりひとりは人間なので、その変さと折り合いがつけられるかどうかは相性もある。無理して体や心を壊してまで合わせるものではないと思う。

 

今のところ自分にとって、クラリネットを通して得られる社会とのつながりは、自分を保つ上で良くはたらいている。変なのはどっちか、はっきりするということだ。

これは、色々な共同体に属しながら生きていく動物である人間の、精神の保ち方の一つかもしれない。自立するということは、依存する先をたくさんつくるということだ、とSNSなどで時々目にする。

 

何が大切かということは、人生のそのときどきによって変わるので、常に参照できるいくつかの軸を保っておくことがとても大切ですね。

 

 なお、このようにありがたく思っているクラリネットとその仲間であるが、今回の自分の振る舞いを顧みると、少なからず「承認してほしい」という態度が音や演奏に出ていたのではないかと反省しています…