夜ふかし録

クラリネットの条件検討

2016


新しい年というと、なんとなく新しい気分になって変わるんじゃないかって期待が生まれてきますね。
実際は、昨日と明日に挟まれた今日という意味ではどの日も変わりなく巡ってきているので、一年とかそんな区切りに意味はないよ、なんて言うこともできるかと思いますが、せっかく新しい気分になれるきっかけがあるのならば、それに乗って本当に変わるきっかけにしたいものですよね。


2016というのはなんとなく据わりが悪い数字のような印象を受けます。早く次の数字に行きたいような…次の年につながる感じがしなくもない?その意味では据わりの悪さは良いことかもしれません。

個人的には現状に全然満足していませんので、次へつなげるための「今」という意味で、2016年は据わりが悪くてもいいと思っています。
反省しつつね。がんばりましょう。

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Mahler 3

マーラーとの出会いは中学生の頃、バーンスタインニューヨーク・フィルの録音だった。大学1年の時には交響曲第1番の4thクラリネットを受け持って、ソロを吹かせてもらったりした。極彩色の管弦楽で、箱庭(といっても、巨大な箱庭だが)を思わせる作風のインパクトはとても大きくて、吹奏楽の10分程度の「大作」しか演奏経験がなかった自分には、消化できたものではなかった。

 

12月11日は代々木のNHKホールでマーラー交響曲3番を聴いた。マーラーの作品はどれも長いけれどそのなかでも最長の作品(100分くらいある)で、聴き通すのも大変で演奏する方はもっと大変だろうと思う。N響は見事に演奏していたし、指揮者デュトワも悪くなかった。

 さいきんは首都圏を中心にマーラーブームになっていて、ついこのあいだも東京交響楽団が3番をやっていたし、都響はインバルとともにマーラーサイクルを2回もやって、全集も出している。演奏の質も高い。3番はシノーポリ都響の演奏を何度か聴いたけれど、どちらかというと1楽章の男性的なイメージが強く残っていたのだが、実演を聴くとイメージが変わった。(こういうのが大切で、実演を聴きたい理由のひとつ)

 確かに1楽章は勇壮な始まり方をするし、行進曲風の性格も何度か登場し、しかも長い。実演を聴いた印象では、そういった交響曲の中での男性的な要素は1楽章に凝縮されて、それ以外の要素について2〜6楽章でじっくりと述べられているかのうようだった。特に6楽章のアプローチは、インバルの非常にはっきりとアーティキュレーションをつけるやり方とは違って、legatoな演奏だったと思う。女性的と言ってもいいかもしれない。マーラーには(他の作曲家だってそうだけど)女性的な要素があって、その要素に対してソリッドに造形を試みると、けっこう疲れてしまうのではないか。デュトワのやり方はとても似つかわしく、この3番という曲の性格を引き出してくれた気がする。

 

それから、トロンボーンについて。トロンボーンには1楽章に長いソロがあって、そこでは主に低音域を歌うため、男性的で、粗野で、少し不穏なものの予兆を孕む感じだ。6楽章で再び現れるソロでは、やや高めの音域を歌う。たまたまモーツァルトのレクイエムを聴いていたせいもあって、その曲の"Tuba mirum"を思い出した。「奇しきラッパの響き」。モツレクではアルトトロンボーンだけれども。同じ楽器のソロだけど、長大な曲の最初と最後で、全く別の役割を演じている。つながりを考えずにはいられない。ひとつ仕掛けを見つけた気がしたのだった。

冬支度

東京の冬は北陸よりは暖かいと思いますが、それなりの寒さになります。風が強く、体感気温は北陸に匹敵するかも?そして湿度が低いため、唇カピカピ、あかぎれザラザラです。


初期研修も半年…いや、7か月が過ぎました。ようやく慣れて周りが見えるようになってきた…と自分では思います。来年の初期研修医も決まりましたし、いつまでも新人さんではいられません。


少しですがお金も貯まったので、もう7年目になるMacBookを「新しいMacBook」に買い替えました。
寮のネット回線が非力なため、モバイルWi-Fiも契約しました。ちょっと贅沢にも思えますが、奮発してしまいました。

東京はヒトもモノも多く富も集まっていますが、地域としての魅力があるかというと、必ずしもそうではないのでは、と思います。地域のカラーとか共同体意識というものは、たとえば石川県に比べると希薄に思えます。
政治家にがんばってほしいところですが、あんまり期待できなさそうです。
東京はこのままで大丈夫なのでしょうかね。

そんな思いを抱く私でも、生まれ育った板橋区や慣れ親しんだ池袋には愛着を感じます。

聞き疲れ

ひとのお話を聞くのは少しだけ疲れます。じわじわと疲れがたまるので最初はなかなか気づきづらいかもしれないけど、受け取った分を圧縮するなり吐き出すなりしないと、気がついた時にはけっこう疲れてしまいます。

音楽って、あるいはそのはけ口のひとつかもしれませんね。
音楽という発明じたいが、連綿と続く日常に能動的に拍節感をもたらすものなのかもしれません。

音楽でなくてもいいのです。
表現expressionということが必要なのだと思う。

グレイト

連休は大阪で過ごしました。月曜日は日当直なので、土曜日夜からの丸一日しか居られませんでしたが、シンフォニーホールで今年2回目のグレイトを聴きました。京都市交響楽団、指揮は広上淳一
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この曲はほんとうに幸せな曲だと思います。チャイコフスキーなどでは、フィナーレでババン!と終わってもどこか陰翳の記憶が尾をひくのですが、この曲では聴き手の生活の澱をも汲み取って清算するかのような安定と安心がありますよ(断言)。
個人的には、二楽章の中間部、パウゼのあとの低弦が、この曲が生まれた時代を反映している気がします。ここはまるでチャイコフスキーのようです。こういった感情表現はベートーヴェン以後の人らしい表現だと思うのです。
詩的ですね。

さて明日からふたたびお仕事です。
ひとつひとつを丁寧に仕上げていくことが大切なのは、音楽も仕事もかわりません。

感覚なのか、記憶なのか

数年前の自分がもっていた感覚、日常生活のなかで感じていた空気感とでもいうものが、今の自分には3割くらい残っていて、7割くらいは失われてしまったように感じられる。モラトリアムらしい、時間に対するリッチな余裕感とか、対人関係の対象の(仕事という必要に迫られないための)狭さとか、そのとき一緒に過ごした人との関係の(そのときの自分にとっては)薄氷を踏むような不確かさとか、それでも感じた信頼感とか…

まぁ、懐古趣味と言われたらそれまでなのだけど、その後に起こったことや、その出来事で自分が受けた衝撃を考えると、その時期の自分の感覚というのは、失ったらかえってこないに違いないものだと思うのです。

 さいきん秋みたいですね。

携帯電話が不調

約2年前から使っているiPhone5cが不調。時刻がとにかくズレてくるため、目覚まし時計として使えないし、Wi-Fiも接続してしばらくすると勝手に切断してしまう…  これでは使い物になりません。
(ネットに転がっている復旧法をいくつか試したものの、僕のケースでは全て奏功せず。なんで?)


これでは困る!ということで、かつて使っていたiPhone4Sを復活させることに。
SoftBankのお店に行き、ワケを話すと、「SIMカードの在庫があればできます」とのこと。在庫を調べてもらうと、なんとラスト1枚でした。4Sですもんね。絶滅危惧種でしょう。
ちなみに、1000円くらいでできるのかな?と思っていたら、3000円くらいかかってしまいました。仕方ないですね…
恐らく、5cを修理に出すよりは安上がりのはずです。
4Sは随分古くなってしまった機種ですが、OSを敢えてiOS6のままにしておいたので、比較的軽快に動いてくれています。iCloudやiTune matchが使えないのは正直、痛いところですが、ま、仕事が始まってしまえば、そんなの関係ないですし。

5cは夏バテだったのでしょうか?少なからず落下の憂き目に遭ってきたiPhoneだったので、モノとして壊れてしまっているのではないかな…と想像しています。ソフトウェア的な復旧はおそらく一通り、試しましたし…



夏休みも残すところ土日のみ。やっぱり短く感じますね。