「なにかのカウンターとしてしか存在できない自己」は肩身が狭いと思う。
だが、「カウンターとして存在する自己」にいついてしまう癖が自分にはあるし、自分以外のひとびとにもその傾向はあると感じる。
ぼくたち自身は、その時その瞬間に自分がカウンターとして存在しているのか、それとも主体的なものとして存在しているのか、リアルタイムにはわかっていないことが多いのではないか。
だが、会話している相手には、自分と会話しているものがカウンターなのか、それとも主体的で自律的な存在なのか、それが鋭敏に伝わっている。それは強さや弱さとして知覚されることも多いかもしれない。
「人間は社会的動物だ」という指摘は何千年も前になされたものだが、その指摘の鋭さは普遍的だ。ひとには社会的な感覚が後天的にでも備わっていて、その感覚が私たちにそっと囁くのかもしれない。
カウンターとして、かげのように生きるだけでは肩身も狭いし窮屈で、少なくともそこにいついてしまうのはexcitingとは程遠いということはできるでしょう。
そのようなことをぼんやり考えたこの2週間でした。