夜ふかし録

夜がふかまると目が冴えてくる

年末進行

勤め先は仕事納めでした。

年末に向けて予定手術の件数が減っていき、今週は余裕をもって仕事納めへと収束したように思います。(そうはいっても、緊急の心血管系手術は2日に1回くらいの頻度で入っていました)

 

年末の雰囲気を嫌いな人はあんまりいないと思いますが、自分も例に漏れず年末が好きです。楽しげなイベントが続くことや、街中に季節ものの音楽が溢れること、そして休みの時期であることなどが理由かなと思います。小さい頃は年賀状も好きで、たくさん書いて出していました。葉書のやり取りが嬉しかったのを覚えています。年賀状は年を追って、特に大学入学後は、めっきり枚数が減りました。

今年は社会人2年目なので、職場を中心に年賀状をもっと出したいと思い、少しずつ、しかももう時期的に遅いのだけど、書いているところです。イラストやフォントなどに凝り始めるとキリがないけど、来年はそういったところにも凝りたいなぁ……なんて、早くも来年のことを考えてしまいました。

 

年賀状を書きながらふと思った。「大晦日→お正月」という流れのなかには「死と生」がありそうだと。この小さな輪廻転生が、私たちにカタルシスと祝祭感をもたらしているのではないか?と。

まだ自分には本物の死は訪れていないし、近々にその予定もないけれど、この流れのなかに小さく輪廻しているような気はします。

ほら、来年の目標とかいって、別の誰かになりたがるじゃないですか。

 

カレンダーがそういうふうにせっかく出来ているので、それにしっかり乗って、生き返った気持ちで新たな年も仕事をしていきたい…

と、思うのでした。

 

f:id:tita144:20161229212526j:image

きれいな思い出

秋冬になると体調が楽になる。やっぱり夏は生きているだけで疲れると思う。

10月に入って少しした頃に気温が下がって、その途端身体がなんとなく軽くなったようだった。夏をよく頑張ったと自分を褒めてやりたいくらいだ。ひと仕事だ。

 

11月にもなると、午後の日射しはもう西日になっていて、建物を照らす光もあたたかい色がついている。

 

f:id:tita144:20160417142621j:plain

 

すると、金沢のことを思い出す。金沢の秋にいい思い出があったのだろうか?あんまり具体的なエピソードは思い浮かばないけど… 金沢は雪のせいで冬が大変だし、春は春と呼ぶには寒すぎるので、消去法的に、秋がいちばん過ごしやすかったからかもしれない。

 

金沢のことを思い出すと自動的に彼女のことを思い出すことになる。これはもう、仕方ない。

客観的に考えると、金沢に住んでいた6年間のうち、彼女と親密にしていたのは約2年くらいであって、おわりの2年半はもう彼女はいなくなってしまったので、時間的には3分の1くらいだ。だが、土地の記憶として中心的になってしまっている。

とらわれ過ぎとも言えるかもしれないが、その記憶は信じられないくらい良い思い出なので、余計にその印象が強化されることになる。

 

しかし、、

もはや五回忌も過ぎてしまった。一周忌までは途轍もなく長かったが、三回忌、五回忌は実感が無いほどはやく来た。つまり、自分の中ではあんまり時間が進んでいない実感なのだろう。

それでもいいかなと思っている。現時点では、このことがそんなに不健全とも感じないから。

 

 

仕事は最近リズムを掴みつつある。そろそろ、プラスアルファの努力が必要な段階でもあります。

今年の夏は比較的涼しく始まったおかげか、大きく体調を崩さずに済みそうだ。

去年はアウェーな部署をローテートしていたこともあって、仕事もそこそこに日中からくたびれて大変だった。社会人1年目で、働くことにもまだ慣れていなかったのもある。

 

2年目になり、研修医としては仕事の流れも覚えて、楽になったことは間違いない。それでもやはり週末にはそれなりに疲れる。

肉体的な疲労など知れたもので、やはり精神神経的なところでの疲れが大きいように思う。

1ヶ月ごとに部署が変わるから、それなりに気も遣うのだろう。また、病院という環境は特殊だと思う。様々な職種がいるのではあるが、それぞれがみんな資格職であるせいか、普通の会社とも違うストレスがあるような気がする。

 

いや、もしかしたら病院じゃなくても、普通の会社に勤めていても同じくらい疲れるのかもしれない。わりに自分はナイーヴだから。

 

どちらであっても、週末なり夜の時間なりを使って疲れをなんとか取って溜めないようにしないと、調律の狂った楽器のように、どんだんおかしくなってしまう。

 

そうなるとやはり今の自分では、本を読むことと楽器を練習することで、ひととき病院のことを忘れられる。

なにかもう一つくらい、違うモダリティを持てたら幅が広がるとも思う。

 

f:id:tita144:20160904004528j:image

 

今年の夏は、自分としては比較的外に出て遊ぶことも多かったように思う。ロックフェスなどに出かけたりもした。

夏は今まで特に好きでも嫌いでもなく、暑いからどちらかといえば嫌いだったが、今年はあまりネガティヴにならずに過ごすことができたかなと思っている。

積極的に遊ぶというのも、決して楽ではないですね。

カルボナーレの教則本

昔から欲しかったもので、なんとなく気分が乗ったので購入。自身がクラリネット奏者として第一線で活躍するAlessandro Carbonareが書いた教則本で、「音色」にフォーカスしている点が今までの教則本になかった着眼だ、みたいなことを言われていた気がする。

 

 

 

 

 

まだチラッとしかみていないのですが、オーケストラスタディを題材にしており、練習していて楽しめそう。

苦手なリード

(前提として、マウスピースはB40と5RVLyreを使っています)

 

もともとバンドレンの青3や銀31/2を使うことが多くて、その後リコの赤や銀を使ったりもした。これらのリードは、硬さの合う合わないはあるが、吹き方としては大きく変わらない印象。

 

バンドレンのルピック56とV21は新しいデザインのリードで、リードの先端からおしりにかけて絞り込まれたように細くなっている。

ルピックもV21も、硬さが合えば吹けるし本番で使ったこともある。しかし、どことなく他人の台所感があるというか… 勝手知った感じにならない。特にルピックは、つねにバランスが気になるとでもいうか、少し気をぬくと息→音の効率が悪くなるような気がしてしまう。V21はそこまでバランスの難しさを感じないが、新品を慣らす途中ではけっこう感じたりする。

 

リードのデザインという点ではあまり共通点はないかもしれないが、ダダリオのレゼルヴクラシックにも似たような苦手意識がある。

レゼルヴクラシックとルピックの(自分にとっての)共通点は、発音はしやすいし音色も良いのにそれを維持するのが意外と難しく、結果的に吹いていて疲れる。というところ。

 

 

なぜ、自分はこういったリードが苦手なのか?ということを考えれば、もう一歩奏法が安定するかもしれない。

リードを鳴らすとはどういうことか?

自分が普段リードを鳴らすとき、ポイントにしているのは何なのか?

というところに、カギがありそうだと感じています。

個人練習

この稼業では、学生時代のようにオーケストラとか吹奏楽団に入って定期演奏会に出るといったことは難しい。

しかし、自分が志望している科や、ほかの忙しすぎない科であれば、週に1回数時間、ひとりでやる分には練習する時間は確保できる。

 

ときどきテレビや何かでオーケストラの木管セクションの音を聴いたりするといいなぁと思ってしまうけど、個人練習でもコンスタントに楽器に触れる時間が確保できるなら、それでとりあえずは十分だと思う。

 

そう思ってしまえば、なぜか気が楽になり、とりあえず最近買っていなかったリードを買いそろえたり、昔使っていた教本を見直したりしている。

 

かつては、B40に銀の31/2やら青の3が自分の定番だったが、5RVlyreもあることだし、趣向を変えてD'adarioのReserveに手を出してみることにした。

 

近年はリードのデザインの違いをメーカーが細かく解説してくれているので、それを元に自分との相性を予想したり奏法を工夫するのもそれ自体楽しめる。

 

息の量を吹き込むことの意味

今まではどちらかというと、息の量ではなくアンブシュアとイメージ(息の通り道への気遣い)によって遠鳴りする音をつくるべきと考えていた。

 

かつて自分がクラリネットを教えてもらった吹奏楽部では、「息をとにかく吹き込むこと、それによって鳴りが得られる」といういささか体育会的な考え方で先輩から後輩へ指導されており、自分も高校卒業までその考え方に乗っていた。

その結果やや重い吹き方になったが、大学入学でオーケストラに乗るようになると、そういう吹き方ではあまりうまくいかず、周囲からの評判も芳しくない。無駄が多くてエレガントでないためだと思われた。そこで、プロのオーケストラ奏者に弟子入りし、基本的な奏法を学んだ。そこで強調されたのは、(しっかり息を入れることも大切であるが)息を集中させて遠くへ飛ばすイメージをもつことと、それを実現するためのいくつかのポイント(アンブシュアなど)

だったのだ。 

 

で、ある程度はそれを身につけることができた。息は量ではないと思うようになった。

 

しかし先日、かつての高校時代の先輩に楽器を吹かせてもらい、また彼に楽器を吹いてもらったところ、圧倒的に自分の楽器の鳴りが悪いことに気づいた。それは楽器の問題ではなく、日頃の使い手である自分の問題だろう。

息の量によって音が変わるのだ、と再発見した気持ちだ。

感覚の話なので表現しづらいが、音の広がりが変わり、しっかりと息を入れて吹く習慣によって、楽器のある種のキャパシティが大きくなる印象もあった。

また、音程感にも影響する気がしている。(特に、強奏で)

 

遠達させるイメージももちろん大事で、さらにしっかりと息を入れて広がりをもたせることで、表現はもっと豊かになるのだろう。

勉強になった。