夜ふかし録

クラリネットの条件検討

詩を読むこと

詠むほうじゃなくて読むほう。

子どもの頃から本は好きだったけど詩は親しみが薄く、なんかそういうのがあるんだなぁ…と思う程度だった。宮澤賢治とか茨木のり子とか、有名な詩人の作品は多少知ってるかな、くらい。

 

宮澤賢治茨木のり子の詩を読んでその一節が気に入ったり、感心したりすることはたびたびあった。でも、なぜあの独特なフォーマットで文章を書くのか、とか、ちょっと意味を掴みかねるようなものが多かったりだとか、そういったところが「疑問」で、詩を丸ごとひとつ全体として解釈することができないから、自分には詩を読む才能がないんだろうな…と思っていた。(実際、「詩を読む才能」というものがあるとすれば、自分にはないだろう)

 

ただ最近肩の力が抜けたのかなんなのか一つ気づいたのは、読み方があるんだなということだ。

詩ではない文章ーたとえば料理のレシピとか、実験のプロトコルは、これはもう完全に意味内容を書き手から読み手に間違いなく伝達することを目的として書かれている文章だ。一つ一つの文章が、きちんと一つの解釈に収まるように書かれているはずの文章で、「他の解釈の可能性」というものは積極的に排除されるように書かれている。

また、小説は文学作品、文芸作品だが、多くの小説には筋書きがあり、小説を構成する文章は意味内容を伝えるために書かれているので、多義的な解釈を許す幅というのはやはりそう大きくない(と思う)。私が文章を読むモードというのは基本的にこれらの文章を相手にする時のモードなわけですね。

ところが詩はどうやらそうではない。

文字は言葉をあらわし、言葉は話された時に音をもつ。その音やリズムそのものは意味を持たないので、ふつうの文のなかではあまり意識されず優先順位も高くないが、詩はそれらを大切にする。

また、意味においても、筋がとおるかどうかを一旦わきにおいていいようなところがある。「蒼白い瓦斯燈」というような文字の並びや言葉のつながりが、美しさなり何なりの感興を呼び起こすなら、そのことがjusticeなのが詩、、、なのかな。

 

意味や音、リズムといった要素を挙げたが、これらに限らず文字や言葉のもつ様々な側面をなんでも使っているのが詩なのではないかな…と、思った。

その結果、実験プロトコルを読む時のモードで詩を読んでも???としかならないのは、当然の帰結かもしれない。

 

そして、これは言葉の詩のみに言えることではなくて、音楽や絵画においても相当することがいえるのだろうなぁ。